柳原の昔の姿
弘化三年(1846年)村上荘七郎「攝津国兵庫津細見図」より
兵庫の町は、何度も歴史の表舞台に登場し、平安時代の一時期には福原に都がおかれていたこともあるという由緒のある町です。兵庫の西の端にあたる柳原の名は、往古この地にあった柳の大樹が由来と言われています。現在の柳原のJRガード附近に柳原惣門があり、兵庫の棒鼻として兵庫津の西国往還の出入口、また役場として繁栄しました。
兵庫津が歴史上に現れたのは、平清盛の大輪田修築の頃と思われます。古名は「大輪田の泊」と呼ばれ天然の良港として栄えた歴史を持ち、その足跡は町の其処かしこに残っています。元禄地図によりますと、東は湊町から須佐・入江に達し、都賀の堤(兵庫の外廓)で一廓をなしていました。
天明7年頃(1788年)、柳原には72軒の戸数があり、明治維新まで続きました。現今の神戸の中心地は三宮界隈に集中していますが、神戸発生の地である兵庫は、明治以後急速に発展し、大正を経て昭和20年頃まで商工の中心地として大いに繁栄しました。
平成14年10月6日 柳原惣門跡発掘の様子
発掘調査の際の調査図
平成12年度に兵庫区民まちづくり会議と兵庫区役所によって「兵庫区歴史花回道構想」が策定されました。
これをもとに区内に所在する史跡等の歴史遺産を復元し、あるいはそれらを地域の象徴として、まちおこし・まちの活性化に結びつけようとする努力が地元住民の熱意を原動力に各所で進められています。
ここ柳原の地は、元祖神戸港というべき大輪田泊=兵庫津の町並みの一角にあたり、近世にはその西の入り口として「柳原惣門」が存在しました。
(一言で言えば兵庫津の町の西の玄関口ということになります。平時には町の玄関の装飾となり、不時の場合には町と外部を遮断する防衛線となる役割がありました)
ただ、この惣門は明治時代の古い時期に撤去されているためその正確な位置・規模の情報が分かっていません。
今回の発掘調査は、柳原惣門の再建にあたり、基礎的なデータをとり、さらに桝形・都賀堤(とがのつつみ)など、惣門周辺の状況を確認するため行いました。
蛭子神社、御社殿裏での発掘の様子
明治時代道路の下水管
惣門基礎跡
出土品の一部
柳原惣門が設置・撤去された時期については明確な記録がありません。
しかし都賀堤については池田信輝によって、天正八年(1580)兵庫城の築造時に外輪堤として築かれたものであることがわかっています。おそらくこの際に関門として設置されたものでしょう。
明治2年(1869年)の「兵庫津細身全図」には柳原惣門が描かれてますが、明治14年(1881年)の「兵庫県神戸実測図」には惣門が描かれていません。この間に取り壊されたものと推測されます。
明治八年(1875年)に都賀堤が削平されていますので、この時に惣門も撤去されたのでしょう。
兵庫津が尼崎藩領であったのは天和3年(1617年)から明和5年(1769年)で、以降は天領となっています。したがってこの標注は遅くとも江戸時代中期まで、おそらくは江戸時代前期に、兵庫津の西の堺になる柳原惣門の付近に建てられたものと推測されます。
「従是東尼崎領(これよりひがしあまがさきりょう)」標柱
下層から出土した鎌倉時代・室町時代の遺物
江戸時代の掘出土の遺物
明治時代の掘出土の遺物
明治時代の掘出土の遺物
昭和20年の空襲で融解したガラス瓶等